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今があるのも東京で修行時代の経験があったからこそ…
感動したことや思い出をつづってみました。
 

【東京蒲団技術学院】

昭和28年、仕事に忙しくふとんの製造や打綿工場の管理、
お客様との対応にあけくれる両親の一人娘として、
わたしは高知県高知市に生まれました。

綿入れをする職人さんや綿まみれになった母の横で、
お気に入りのお人形さん用に母が縫ってくれた小さなおふとんへ、
自分も見よう見まねで綿入れをしていたものです。



家業をつぐため、東京の板橋区にある東京蒲団技術学院に入学したのも、
ついこのあいだのように感じますが、ここでの生活はふとんの綿入れはもちろん、
経営理念や精神修行なども教えていただき、
その寄宿生活は今でも強くこころに残っています。

一日中をずっと綿(わた)の中で過ごし、現在の自分の寝具に対する
「ものづくりの基本」となるものを学びました。
規律あるきびしい生活を共にして家族のようになった友と、
授業のない日は近くの寝具店で綿入れの実習をしたり・・・
この体験はたいへん貴重なものになりました。

 
【寄宿生生活】

東京蒲団技術学院には、本科(通学で1年間)と専攻科(寄宿で6ヶ月間)の
2コースがあり、わたしは専攻科に入学し、さらに研究科へと進みました。

専攻科では同期の男子7人、女子10人で寄宿生生活が始まるのですが、
授業は、中村畦硯学院長ご指導のもと、ふとんの綿入れにはじまり、
精神修養や教訓・しつけの分野に至るまで、毎日あらゆることを教えられました。

ふとん製作で言えば、敷きふとんを30分で、
掛けふとんは40分で仕上げなければいけません。
ふとんの側を敷き、その横に綿(わた)を取りやすいように並べて、
「よろしくお願いします」のかけ声と同時にストップウォッチが動き出す。
座ぶとんであれ何であれ、時間との競争が続く・・・



この頃から、「何分でできる?」というのが、なんとなく癖になったのかもしれません。
卒業時には国家試験があり、その試験は、筆記試験のほかに、
掛けふとん1枚・大判座ぶとん1枚を縫製し、綿入れし、仕上げてとじる・・・
を4時間で完成させます。
それが、労働大臣認定寝具製作技能士2級です。

さらに、技能奨査というのもあって、これは、かいまき(夜着の薄いもの)の
綿入れ・仕上げまでを2時間で行うものです。

この2つの資格を手にした生徒が晴れて卒業できるのですが、
それまでの特訓は大変でした。
国家試験に関しては、代々木のオリンピック村で全国から受験生が集まって、
泊まり込みの特訓があったくらいです。

この1年間は、わたしの人生の大きな柱となる大切な時間です。
 

【修行】

修行と言えば、東京蒲団技術学院での寄宿生時代が筆頭に挙げられます。
まず、授業でいえば、今まで、ろくに針や糸を持った事のなかった
私の第一の試練は、運針テストでした。
1メートルを1分以内で運針しなくてはいけない。
男女17人の寄宿生が並んで同時にタイムを計る。

あの頃はほんとに、最初はビリの方だったと思いますが・・・
運針の次には口くけの練習。
毎晩、みんなで自分の掛けふとんの裏の縫い目の口を開いては、
口くけの練習をしました。
これが遅いか速いかでタイムに大きく影響するので、みんな必死でした。

その必死の練習の末には、針が自分の手の一部のようにうねってきて、
それからはもう勝手に布の間を5、6針くらいは走ってくれるようになります。
これには、職人技に近づいたような、感動を覚えました・・・

もう1つの試練は、正座です。
毎朝、授業の始めは学院長の1時間の訓話から始まりますが、
これはみんなが苦痛で、最初は15分も持たない子も多く、
もじもじ、ごそごそしていたら学院長の喝が飛ぶ・・・



私なんかは、貧血で目の前が暗くなる一歩手前になったことを覚えています。
でも慣れてくると、いかに学院長に悟られない様に膝を崩すか・・・
体得してくるほどに、背筋が通ってきます。

ふとん一枚の製作時間は、30分。
綿(わた)を張って、ひっくり返してくけて、のしつけ(形を整える)をして、
とじ糸で布団をとめて、最後に角とじをして、最後のとじ糸をパチンとはさみで切る。
その音とともに、「できましたぁ」の大声。
タイムストップ!
私たち寄宿生は、週2回の通いの本科生の見本となって模範を見せる事も多く、
毎日が特訓のようでした。

ほとんどが、高校を卒業したばかりの布団屋の息子・娘です。
みんながあんなに必死になって過ごした時間はないのではないかと、今、思うほどです。
「よーい、始め!」の合図に、時間との戦いは始まり、
緊張に手がふるえ糸が針になかなか通らないし、
手の汗で針が軋(きし)んでくけが進まない。
そんなときは、鼻の頭の脂を針につければ、軋みがなくなって滑りがよくなると習い、
「できましたぁ」と言ったときには、鼻の頭が血だらけになっていた男の子もいたという、
笑えないような笑い話もあるほどです。

ふとんに、汗や血をつければもちろん減点でしたが、
必死で終わってみると指ぬきに針の頭が当たらずに、
指に小さな穴が開いて血が出ていることもありました。
自分の布団の仕上がりを見届けて、
それから自分の身体の小さな異変に苦笑いすることもしばしば・・・

ピンと張った緊張感の次にはホッとするその落差が滑稽で、
お互いに顔を見合わせて笑う。
そんな苦難の道をみんなで乗り越えて、タイムのプレッシャーにも負けず、
最後には堂々と余裕の「できましたぁ」が聞けるようになります。

授業は綿入れのほかに、学院長の好きな詩吟があり、
こちらも「ベンセイ粛々・・・」と、唸らされたものです。
華道・茶道の授業は若先生に教えていただきます。
学院内のことはほとんどと言っていいほど、寄宿生は全てを教えられました。
電話の応対、訪問客の接待、お茶の出し方など。
また、休日には、学院長にゴルフのパターを教えてもらったり・・・
四六時中、学院長に触れて学院長そのものを学びました。

学院長の綿作りは芸術品に近く、一枚一枚重ね合わせた綿が
上等の粉でつくった大福餅のごとく、ふっくらとつややかな形に変わります。
学院長の考案した綿入れは、綿の上を最小限しか踏まずに
綿入れをするよう教えられました。

「綿を踏まない、こすらない。」

綿作りでは、布団の角が命で、その作り方がいいほどにいい角入れができあがります。
布団の角の先までピンと綿が入ったツンとした角ができあがります。
いかに、寝心地のいい布団をつくるか、その職人気質の「ものづくりのこだわり」を
ここに学びました。

寄宿生活は、今では想像もつかないような、まるで寺子屋のようなものでした。
私自身、「寺子屋」を知っているわけではありませんが、
女子でもだだっ広い板張りにゴザを敷いただけの教室で、
夜はふとんを敷いて寝て、朝7時の起床の挨拶から1日が始まります。
学院内の掃除をし、その後朝食。9時から授業開始。

授業が終わり、教室中の綿ぼこりを掃除し、そこに机を並べて夕食を食べ、
夜には寄宿生17人が一緒に近くの銭湯に行く。
隣の男湯から「もう出るぞぉ」と声がかかれば、
女湯から「まだぁ〜、もうちょっと」と言って、一緒に出ます。

この銭湯で飲むコーヒー牛乳の時間が、1日の一番くつろぐ時間でした。
石鹸の香りをさせながら、17人揃ってカランコロンと洗面器を鳴らして帰る姿は、
「神田川」団体さんのようで、今思うと笑えますが、
当時はそんなことが乙女心をくすぐったものです。

日曜日はお休みですが、朝6時から近くの神社の境内までの道路や、
境内の中の清掃のボランティアをしました。
そのあと、一週間ぶりの洗濯物を持って銭湯に行って、洗濯をします。
もう、24時間寝食を共にした、文字通り「同じ釜の飯を食った仲」の
16人の同朋ができあがりました。

前期が終わり、私ともうひとりの男子が研究科に残り、 この寄宿生活は続きました。
後期には8人の後期生が入り、私達は先輩になりました。

私たちは土曜日の研究科の授業以外は、毎日、田端にある
「ヨシムラ」に綿入れに行きました。
そこには、女の先生も一緒に行って下さったので、3人で綿入れの仕事をしていました。
ここでも、自主的にタイムを計り、1日に綿を何枚入れることができるか
二人で競争もしたりしました。
私が姐ごで、彼は弟分。いまでもその関係は続いています。(笑)



この寄宿生活の1年間は、テレビもラジオも新聞もない生活で、
ただひたすら、綿の中にいたという感じですが、このことによって、
修行というにふさわしい時間を持てたことは、
楽しい想い出とともにいまでも本当に誇りに思います。

 


※イラストは、地元高知市旭町にある「国際デザインビューティーカレッジ」
 マンガ科の卒業生、西山周作さんに書いていただきました。
 原稿をもとにサササーッっと書いてくれました。
 ありがとうございます!

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